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「staticおじさん」現象とは何だったのか

―「クソコード」批判に姿を変えたネット社会の同調圧力―


前回、「クソコード」という言葉がバズワード化していることについて触れました。
今回は、少し歴史をさかのぼって「staticおじさん」現象を振り返りながら、
“コードの正しさ”がどのようにして社会的な信仰に変わっていったのかを考えてみたいと思います。




「staticおじさん」というレッテル


「staticおじさん」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。
2010年代初頭、オブジェクト指向が声高に唱えられていた時代、
C言語的な書き方――たとえばstatic関数やグローバル変数――を使い続けるベテランエンジニアを
揶揄するために生まれたネットスラングです。


当時、オブジェクト指向は“正しい設計思想”として教育現場でも現場でも広まり、
メソッド呼び出しこそが美徳であり、static(関数)を使うことは“時代遅れ”だとされていました。
しかし今振り返ると、彼ら(staticおじさん)が使っていた手法の多くは、
単なる無知ではなく、実務的な妥協や効率化の知恵だったように思えます。
プロジェクトの制約、納期、パフォーマンス、チーム構成――
そうした現実の制約を理解したうえで“あえて”選ばれた手段であったことも少なくありません。




「信仰」としてのオブジェクト指向


オブジェクト指向の時代には、「staticを使うのは悪」という単純な善悪構造が形成されました。
その背景には、エンジニア教育や資格試験、ネット上の設計論争などを通じて
「OOPこそが唯一の正解」とされる雰囲気があったのです。


この構図は宗教的です。
人々は“正しい設計”を信じることで安心し、
他者の異なるやり方を排除することで、自分の信仰を強化していきました。
それは技術的な議論というよりも、
「自分が正しい側にいる」という心理的な安定を得るための行為でもあったのかもしれません。




繰り返される「同調の構造」


staticおじさんを笑っていた人々が、
いま“クソコード狩り”をしているとしたら、
それは同じ構造の繰り返しです。


かつて“staticおじさん”を嘲笑していた人々の中には、
いま現場を離れてしまった人も少なくありません。
壮大なオブジェクト指向の実験の果てに、
多くのプロジェクトが炎上し、多くの人が疲弊しました。
その中で「失敗の原因は古いやり方にある」として、
staticを使う人々が“悪役”として語られたのです。


時が流れ、オブジェクト指向の幻想が薄れた今、
新たな“敵”として登場したのが「クソコード」でした。
コードの品質を語ること自体は重要ですが、
他者のコードを嘲笑し、排除しようとするその姿勢は、
十年前の“staticおじさん狩り”とまったく同じ構造をしています。


人を揶揄する文化は定期的に生まれ、やがて消えていきます。
そのたびに誰かが傷つき、誰も幸福にはならない。
そこに残るのは、「正しさ」を求めすぎた社会の冷たさだけです。




「正解主義」とどう向き合うか


この現象の根には、「正解を求める文化」があります。
多くのエンジニアは、「何が正しいのか」を明確にしたいと願います。
しかし、プログラミングという行為の本質は、
常に“仮の正解”を探りながら進む試行錯誤の連続にあります。


「わからないままにしておく」ことを許せない風潮は、
議論を貧しくし、思考を停止させます。
結果として、「○○はクソ」「△△は正義」という単純化が進み、
技術が信仰へと変わっていくのです。




次回予告


次回は、こうした「正解主義」の文化がどのようにしてプログラミング教育や職場文化に根を下ろしていったのかを掘り下げ、
「正しさ」と「自由な思考」のバランスを考えてみたいと思います。




この文章は、ChatGPTとの共同作業により作られています。

2025-10-16 | コメント:0件

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