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大学全入時代とポストLLM時代の「知性」

Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」


前回までで言いたいことを言ってきたのですが、Xを見ていると違和感が残る点がありましたので個別に雑記を書きます。


全入時代の違和感、足きりは必要では?


 前回の記事にも書いたのですが、「誰にでも高等教育を!」というのは一見スローガンとしては美しいのですが、物凄い違和感があります。特に大学の存在理由として挙げられると矛盾を感じます。


私が18歳の時に大学に入った理由が「化学者になりたかった」のですが、入った大学の実態は「就職予備校」のようで、要するに「学生に考えさせないで上役からの命令を聞くようにする」という一種の洗脳教育のようでした。言うまでもないですが高等教育というのは「考える力を養成するところであり、(内容はどうでもいいから)期日までに指定されたページ数のレポートを書く」ということではないはずです。この手の批判をすると「今の大学は違う」という反論が来るのですが、前回までの記事のとおり、当の教える側がどこまで「学生に考える力をつけさせるか?」は疑問です。というかそもそも論になるのですが、30年前の大学と今の大学の実態がそんなに変わるのでしょうか?という疑問もあります。
大学が就職予備校でないと言うなら、企業は大学教育を職業訓練として信用しなくなる。そうなれば大学名でフィルターを掛けるのも、企業側からすれば自然でしょう。


関連してですが、当時、私自身が感じたことは、上記のような「就職予備校は要らないので、もう働きたかった」というのがあります。大学をやめる理由が後から出てきてすみませんが、当たり前ですが、大学をやめるときには色々考えまして「既にIT関係の資格を持つものとしてはわざわざ職業訓練は不要で、これなら働いた方が良い」というのも1つあります。つまり、就職予備校なら既に就職する意識や実力がある者にとっては意味がないでしょう。「誰でも入れる」というのと「皆が入る」というのは違うということです。


別の指摘になりますが、「門戸を広げるのなら、別に18歳になって大学に入る必要はないでしょう」ということもあります。『学び直しは何時でもできる』という意味での門戸を広げるのは有意義ですが、「それを学力の無い人間にまで広げるのが高等教育なのか?」ということについては疑問が残ります。例えば、小学生の範囲を学び直すのなら小学校(相当)のもので良いでしょうということです。つまり成熟した国家として学び直しのインフラは必要でしょうが、小学校の内容を大学が引き受ける必要はなく、それぞれ看板にあった教育をすれば良いということになります。
今なら本気で学び直しがしたければYouTubeでいくらでも勉強はできますが、わざわざ小学校の内容を数百万払って学ぶ必要はあるのか?ということになります。


大学関係者が偏差値について「意味がない」ということについて


意外なことですが大学関係者の方で、「偏差値は意味がない」という発言が目立ちました。
「大学の偏差値というのは、テレビの視聴率のようなもので、批判するのは構わないがある程度は受け入れる必要があるのではないか?」というのが率直な感想になります。
テレビの視聴率が悪いときにスポンサーに「視聴率は意味がないです」というようなもので、色々理屈はあるのでしょうが、入学しようとする学生に対して「偏差値は意味がない」と言われると私としては「逃げているな」としか思えません。


 ”Fラン”という言葉に対する大学関係者のアレルギーも感じます。これは「大学を減らせ」という議論が「Fランを減らせ」という議論に置き換わり「必要なFランもある」という論法が展開されています。Fランですが、確かに差別を伴った侮蔑的な言葉ですが、そもそもFラン(ボーダーフリー:偏差値が計算できない)という状況が本来大学に求められたものからの逸脱という点を考慮したほうが良いでしょう。それだけ魅力的な大学ではないということも言えますし、急激に大学を増やした結果の弊害とみるべきだと思います。
特に大学を減らすという政策の転換についてはこれ以上、Fランに限らずに不要な大学を増やしても社会に対してはプラスにはならないという至極当然の理由があるでしょう。


このあたりを大学関係者はどのように思っているか聞きたいものですが、この批判に対して「誰にでも高等教育を!」というスローガンで返してしまいますと「現実から逃げている」としか受け取れないです。


ちなみに私自身の話になりますが、大学をやめてから、大学中退者というレッテルを甘んじて受け入れました。何回か会社に転職もしまして、応募するときは「大卒者」ではないのでそういう企業には入れませんでしたが、そこそこいい企業に中途採用で採用されました。30年前のITエンジニアという特殊な状況だったということもありますが、募集要項に大卒と書かれても書類選考で落とされなかったこともあります。記憶は曖昧なのですが「なぜ大学をやめたのですか?」ということはあまり聞かれなかったように思います。とある企業の役員面接で「なぜやめたのですか?」と聞かれたので「こんなところを卒業したらヤバイと思ったから、実際にバブルが崩壊して同級生は就職に苦労したものもいると聞く」といったら「それは結果論だろ!」と突っ込まれましたが内定に至りました。


AI(LLM)の限界と大学教育


 実は、大学関係者自身が恐らくは日々恐怖を感じながらかつどうしようもないと思っているだろうという点が、AIの台頭ということでしょう。
AIというかLLMの限界については、数理モデルからの研究があり、例えばHallucination Stations が示唆に富んだ指摘をしています。
ざっくりいうと、世の中には、原理的に膨大な計算(指数爆発)を必要としている問題があり、今のLLMが行っている計算量(N^2)では解くことができない。それでハルシネーションが起こるという話です。体感的にも分かる話ですし、実務的にはもっと様々な理由からハルシネーションが起こる(例えばそもそも学習していないことについては分かっていないがそれらしく答えてしまうなど)もあるかと思います。


LLMの台頭は明らかに一定の職業の人(特に翻訳者)から職を奪いつつあるでしょう。ただ、実際にはLLMにも限界があり、私自身は日々感じているところです。
具体的な話をするとこのブログはAIに書かせると「私自身が全く面白くなくなる」ということで自分で書いて校正させています。AIではこの論調の文章は出てこないです。
別の例を出すと、一時期「ジブリ風のイラスト」が流行りましたが、今使っている人はあまりいないでしょう。これは昔の「ホームページにFlash」と同じような印象を与えるのか、そもそも絵が「ジブリ風」であって「ジブリでない偽物」ということが伝わるのか、私は、両方だと思っています。(いま使っている人はゴメンなさい)。


上記の論文だったり私のAIとの会話での実感なのですが、ある種の楽観的なことをいうと私自身は「LLMが人間から全ての職を奪う」というのは考えられないです。多分10年も経てばLLMに対する常識ということである程度LLMの使い方が社会に浸透すると感じています。


高等教育を銘打つならこのあたりの「AIの限界を超えた教育」というものを実践してほしいのですが、残念ながら今の日本だと「国産LLMを!」と後追いをするか、AI礼賛に陥るか、少々感情的かつ的外れな批判に流れているようにも思えます。もちろんですが、深い考察を行っている研究者の方々もいますし、そういう文章も読みますが、ある意味AIに対する深いツッコミをもっと多くの研究者に期待したいところですが、昔話のような「内容はどうでもよいが指定されたページ数のレポート書く」という課題を与えていた大学にできるのでしょうか?


そうは言ってもAIは世の中を変える


 上の偏差値の話と一見矛盾しますが、LLMの台頭により、「知性のランク付け」というか、大学のランクというものも変わる可能性があるでしょう。つまり従来型のテストで測る知力というのはLLM時代には意味のないものなりつつあります。過去の例をあげると、2026年現在、社会人として漢字を手書きできないということはあまり問題にならないでしょう(実際に私は多くの漢字を書けないです)。一方で、40年前(1986年)当時なら多くの人が手書きで文章を書いていましたので、漢字が書けないということは知性がないとなったでしょう。
もっというと綺麗な文字を書くということも言われました。私の書く文章は汚いのでよく親に注意されましたが、今なら笑えない昔話ですね。
40年前と言えば、仕事でコンピュータを使うということはあまりなかったかと思いますが、今ではパソコンが使えない人は就職もままならないでしょう。
LLMが起こしているパラダイムシフトはもっとラジカルなものでしょうが、本質的には「人間の知性についての再定義をせまっている」とも言えるでしょう。


LLMが東大の入試問題を解いたというニュースは「実は東大の入試問題はそれほど知的ではなかったのか?」という問いかけを我々に投げかけます。この事実とハルシネーションの間に、「パラダイムシフトへのヒント」が隠されているように思えます。「偏差値は意味がない」という関係者の方はぜひ、LLM時代の人間の知性について議論をしてほしいものです。


Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:SNSでの大学のリストラの議論で思うこと


2026-05-17 | コメント:0件

高等教育者は、悪いリストラに立ち向かえるのか?

Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」


いくら「大学は必要なんだ!」、「地域に不可欠だ!」と叫んでみても、それは今までも多くの人が叫んでいたことで、ある意味リストラされる側のテンプレでしかないでしょう。


と前回の記事に書いたのですが、要するに私としては「あまり細部には入り込みたくなかった」ということなのですが、Xで興味深い議論にもなったのでちょっと突っ込みます。


良いリストラと悪いリストラ


今の日本はざっくり言って、「30年リストラし続けて、さらに状況が悪くなり、今は大学の番(が目立つ)」ということになります。
風が吹けば桶屋が儲かるではないですが、失われた30年の結果、子供の数が減り、今大学の数が減ろうとしています。


前回私は、「就職氷河期世代の人材の質の高さには、高等教育の拡大も一定程度寄与していたのではないか」という仮説を書きました。
それが正しければ「その大学が減り、学生の選択肢が無くなればさらに日本人の人材の質が下がるのではないか?」という問いはYESということになるかと思います。


もっとも、少子化ということで大学が減っても減らなくても、残念ながら日本人の人材の質は低下しているようですが、それに拍車がかかるということです。


いずれにしても、


大学を減らす → 人材の質が下がる → 国際競争力が低下する → 所得が下がる → 少子化が進む → 大学が定員割れを起こす。


となるかということになるかと思います。


つまり、この30年の「デフレスパイラル」が、「人口減少スパイラル」に変化したともいえるでしょう。


日本の場合、リストラすれば状況が良くなるということではなく、さらに問題が悪化してきました。なぜでしょう?


リストラが行われた場合、傾向として「能力の高い人から辞めていく」というのがあります。日本の場合、終身雇用となっており、ある意味、頑張れば会社に残ることができます。
結果として、能力の低い人が会社に残ることになります。そして業績がさらに落ち、さらにリストラをするという悪循環になっていました。


これで、会社が潰れ、新しい会社が興ればむしろ良いのですが、残念ながら日本の場合、「能力が高いからと言って必ずしも転職や起業が成功しない」ということもありました。これは村社会ともいえることで、能力の高い人が起業しても取引をしないということがあります。
私の場合は、会社を辞めてどうなったかというと、流れ流れて幸運にも外資系の企業と取引をするようになりました。


独立後、あるとき、そこそこの規模の日本の企業と取引をしたのですが、営業担当と話をしたときに、彼の「そうか零細企業なのね。じゃ幾ら俺にバックをくれるんだ。」というようなあからさまかつ日本的なやり取りがありました。搾取しようとしたのが見え見えで、私としてはフェードアウトさせていただきました。


このように日本の場合は、悪いリストラが行われたということになります。


では、良いリストラとは何でしょうか?
外国の企業の場合、「経営が悪くなれば先ずは経営者が変わる」という傾向があります。最近の例では、2024年末にインテル社のCEOが変わりました。私も身近に「社長が切られた現場」を見てきました。こういうある種、合理的かつ責任の所在がはっきりしている現場では、経営者が変わることにより業績が上向く可能性もありますので従業員がリストラされることもないでしょう。経営者が変わっても業績が上向かないということは「市場の失敗」ということでシュリンクするしかないですが、責任の所在や状況がはっきりとしているので最終的にリストラされる労働者の方も納得感はあったかと思います。


つまり、一律に数を減らすのではなく、責任の所在をはっきりさせることにより、リストラされるべきところをリストラし残さないとダメなところは残すということが行われます。


日本のリストラの場合は、責任の所在がはっきりしないので、結局一律カットということが行われます。
大学を例にとると、大学経営の失敗なら経営者が責任を取る必要があります。それに加えて、甘い見通しで設置を認可してきた行政側、大学を政策や天下りの受け皿として利用してきた側にも、責任の所在を明らかにする必要があるでしょう。


もちろん、個別の企業では、日本でもキチンとしたリストラをやっていたり外国企業でも経営者が居座るということもあるでしょうが、国全体としてみれば日本は残念ながら悪いリストラの方が多かったということが言えるでしょう。


要するにリストラにも良い悪いがあり、


良いリストラ:責任の所在とカットの理由が明確、悪循環になる恐れが低い。
悪いリストラ:責任の所在が不明確、一律のカット、良い人材から抜ける、悪循環になる恐れがある。


ということです。


問題意識がある人と分かっていない人


大学を減らせというと、条件反射的に拒否反応をする人の中に混じって、ある程度、状況を理解していると感じた投稿もあります。
このままいくと、問題意識がありかつ物分かりのよいある意味、再建に適した人材から辞めていく恐れがあるでしょう。そうすると回りまわって・・・ということになります。
この悪循環を止めるのは、責任の所在をはっきりさせながら、適切な人材が大学に残るようにする必要があるでしょう。


一方で、条件反射的に拒否する人は、現状維持では何も解決しないことを理解された方がよいかと思います。


例えば下記のような投稿をする人には、「見識とは何ぞや?」と考えさせられます。


『Fラン潰せ論でクソリプ投げてくる人の言動・見識が現実のFラン学生以下で、やっぱりFラン要るなって気持ちになってる。』


上記の投稿には、ある種の歪んだエリート意識が垣間見えます。


実は、私が大学をやめた別の理由に『学生の意識の低さ』がありました。確かに当時の大学の進学率は20%程度で、大学に入れば就職できる「レールに乗れる」という空気があり、ある種の『間違ったエリート意識』がありました。思考を停止して『これでいいんだ』というおめでたい人達がちょうど『内定取り消し』の時期にあたり文句を言っていたことを思い出しました。


誰にでも高等教育をという理想を実現するには?


Xでの議論になったのは、「誰にでも高等教育を!」という発想が見えたので聞いてみたらそのとおりだったということです。


私が高校に入学して、初めての三者面談で先生から言われたことが、「うちの学校からは大学は行けません」という話でした。
確かに今は「大学全入時代」ということで、「誰にでも高等教育を!」ということでそれはそれで理想が実現したかと思います。


一方、現実をみますと、就職氷河期やリストラというのが多くの日本人を苦しめてきた事実があります。
このような方達は今の「誰にでも高等教育を!」と言っても白けてしまうだけでしょう。「パンが無ければケーキを」に近い違和感を感じることでしょう。


大学の関係者は、まさにリストラを目の当たりにした今、就職氷河期やリストラが、如何に多くの日本人を苦しめてきたか?というものを実感し、今こそ、その知性を発揮して、「責任の所在の追求と破滅的なスパイラルの停止」に尽力するのが筋かと思います。


そういう力を持った方達から理想的な高等教育を受けた学生は日本を復活させることができるでしょう。


Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」

2026-05-09 | コメント:0件

大学のリストラがはじまるようだ

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Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」


どうもSNSが、Fラン大学を潰せ vs 潰さないで騒がしいなと思ったら、こんな記事が出ていたらしい。
私立大学250校削減案、財務省が2040年目標…文科相「機械的判断ではなく分野や地域バランスが重要」


実は、前の記事で書いていた私がやめた大学ですが、入学当時は偏差値は不明(我ながら呑気な高校生でした)で、後から50程度と知ったのですが、改めてみたら偏差値が40台になっており、やめた大学とはいえランクが下がったことに若干ショックを覚えています。


定員割れが50%


記事によると、2025年で、私立大学の半数が定員割れを起こしているとのことで、大学の削減やむなしといったところかと思います。
2040年で250校というとざっくり言ってこの30年間で増やした数を減らすということのようです。
つまり、この30年間で行ってきた大学数を増やすという政策が効果がなかったといっても過言ではないでしょう。
こういうと、反論がきそうなので一つ指摘しておきますと、仮に大学数を増す、つまり高等教育の機会を増やした結果、本来なら日本人の知識なり教養が増えて然るべきだと思われるが、そういう成果の話はあまり聞いていなく、「Fラン大学が小学校の教科をやる必要性」とか「地域に必要な人材を」とかを強調する話が聞こえてきます。


この30年の大学数の増加と日本人の知力の変遷


さて、この30年で大学の数が増え、大学への進学率も向上しましたが日本人の教養というのは伸びたのでしょうか?記事では、
『「四則演算から始める。少し背伸びして微分などの理解」「(英語の)文型の基本とbe動詞の整理」などを挙げた。「義務教育で学ぶ内容の授業が行われている大学もある。助成金の支出に見合った教育の質が確保されているか疑問だ」』
と言ったように、是非はともかく、必ずしも大学で教える必要がないことがやり玉に挙がっています。


別の例として、1つ数字をあげると、日本人のIQは世界で1,2を争うらしく、2025年の調査で大体110前後(105~112)とのことです。昔の日本人のIQは、この記事だと2006年で105、この記事は2004年のもので115とあります。つまりここ20年間日本人のIQは変わっていないということになります。
大学教育とIQを一緒にするなと言われそうですが、さらに別の例をだすと還暦近い人なら80年代当時、『日本人はアメリカ人より頭がよい』という認識があったかと思うが、今はそういう話もあまり聞かなくなりました。


大学等中退者の就労と意識に関する研究によると、偏差値が39の大学の退学率は17.2%、40-44でも16.9%と高い。一方、偏差値50では、6.8%でそれ以上だと中退率が下がるということを考慮すると、入りやすい大学と学生のミスマッチが起こっていることを示唆している。17%というのは無視できない数字であり学生からみたら偏差値が低い大学はリスクが高いともいえる。


いずれにしても、大学の数が増えたことで日本人全体の知的水準や教養が目に見えて底上げされた、という実感はあまりありません。


大学増加が就職に貢献したか?


ちなみに、日本人のIQは世界トップクラスなのにここ30年経済成長していないというのはパラドックスだと思います。ここ30年リストラの現場を見てきましたが、必ずしも「能力が無いからリストラされる」というわけではなかったのである意味同情する余地があり残念な時代でした。


別の例をみると、90年代から、「就職氷河期」と言われて大学生の新卒採用が困難になりました。この原因ですが一般論として「バブル崩壊」という認識があったかと思いますが、「企業の求人数は増えていないのに、新卒の学生の数が増えたので溢れる学生が出てきた」ということも言えるかと思います。これは結局、学歴フィルターという言葉が出てきたことでも分かるとおり、増えた大学がそれほど魅力的ではなかったともいえるのではないでしょうか?


反論はあるでしょうが、大学関係者の方は、このあたりのことをもう少し誠実かつ真摯に受け止めた方がよいかと思います。特に学生に数百万の学費を払わせる価値があるのか?今一度自身に問いかけて見てはいかがでしょうか?


攻撃ばかりではなんなので、1つ大学側の擁護ではないですが、成果の可能性として、「就職氷河期の人材の質の良さ」があるかと思います。非正規労働が増えているにも関わらず少なくともこの30年間は日本は「安全で安心な国」でした。例えば、JR東日本の新幹線のトラブルが2024年9月と2025年3月に続けて起きていますが、それ以前は新幹線がトラブルというのは考えられませんでした。


通訳案内士として外国人に日本を紹介するときに「日本の鉄道技術は世界一で安全かつ正確です」と言っていたのですが、最近はそういう説明も憚られるようになりました。
これについては、「人材の質が落ちているのではないか?」という話もありますが、ようは労働者の絶対数が減ったということで、逆に失われた30年の中でも日本人の技術力の高さを物語っていたということが言えるかと思います。


そして大学の番になった


私がリストラという言葉を初めて聞いたのは90年代後半だったかと思います。衝撃的だったのは、当時、近所のファミレスに中高年の男性がウェイターとして働いていたことで、不景気を実感しました。
その後、ITエンジニアということもあり、ある意味リストラの片棒を担ぐ立場でもあり、リストラの現場をしばしば目撃しました。私自身がリストラ(お役御免)となったこともあります。
様々な業種、シャッター商店街やら、銀行や証券会社の破綻からはじまり、自動車、デパート、航空会社、電器産業と様々な業種にリストラの嵐が吹き荒れたかと思います。

そういうものを見てきた身としては、「あー今大学なんだー」というのが実感です。


リストラされそうな大学関係者の皆様は、いくら「大学は必要なんだ!」、「地域に不可欠だ!」と叫んでみても、それは今までも多くの人が叫んでいたことで、ある意味リストラされる側のテンプレでしかないでしょう。
2040年ということは後14年間ということですが、削減はそれ以前から進むでしょうから、お早めの準備をお勧めします。


Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」

2026-05-05 | コメント:0件

大学だけが人生でない

Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
Part3:高等教育者は、悪いリストラ に立ち向かえるのか?
Part4:大学全入時代とポストLLM時代の「知性」


タイトルの言葉は私が高校生の時にクラス担任の先生から言われたことです。今となっては彼のいうことは間違っていなかったと思いますが、今から37年程前は勇気のいる言葉でした。
入学後に、テレアポの電話がかかってきて適当に流していたら『倍率7倍なんてすごいですね』と言われて自分の大学の倍率を知りました。ちなみに受かった理由は「運が良かった」で大学名は敢えて出しません。
その3年後になりますが、大学を辞めるときに当時のクラスメートから言われたことは「お前の人生終わるぞ」で、当時の一般的な感覚を示しています。まぁ、今となっては思い出の1つです。
やめた理由は、ここの「3.大学教育について」に書いてあるので、繰り返しませんが、私から見れば今の大学が置かれた状況を見ると「そうだろうな」という印象です。


あれから私も還暦を控えた身になりますが、少子化の影響で大学全入時代を迎え「Fラン大学」、「Fラン行くなら高卒」という言葉が出てきて隔世の感があります。
正直、大学に行くか行かないかは本人たちに任せればよいかと思いますし、Fラン大学が潰れようが残ろうが「それは社会(学生)からの選択の結果だろう」と思います。


強いて学生の方に補足すると、大学を出ていきなり数百万の借金(奨学金を含む)を背負うのはリスクがあるので、特にFラン大学へ借金してまで入学するのは個人的にはお勧めしないということと、今はSNSの時代なので、大学関係者の書き込みを見て、受験の判断をしてもよいかと思います。


今の奨学金は「教育のための支援」ではなく、実質的には「将来の収入を前提とした借金」


あくまでも私の記憶ですが、奨学金って月に5万円程度しか借りられなく、あくまでも補助的なものでした。当時の多くの学生は無利子または低利息だったこともあり、小遣いを借りるという感覚だったかと思います。4年フルに借りても総額で240万円程度で、これなら車のローン程度になるかと思います。もちろん当時の経済状況(好景気)もあり決して返せない金額ではありません。
一方で今はもっと借りることができるようで、卒業後300万円とか400万円、多い人だと600万円を超える借金を背負うことになります。例えば消費者金融から借りるには年収の1/3という規制があるのですが、下手をすると年収以上の金額を借りることになります。
もちろん、奨学金と消費者金融では利息が違うので一概にNGとは言えませんが、それでも卒業後、キチンとしたところに勤められなければ借金が重荷になるでしょう。「結婚相手が奨学金を借りているので躊躇している」、「奨学金も借金」というSNSの書き込みも目にし、奨学金の負担が1つの社会問題になっているかと思っています。


高校生の方は、奨学金の現状と解決策というPDF(2025年6月)があるので一読することをお勧めします。特に奨学金を借りて進学することを予定している皆様は、ページ10,11の部分、


  • 若者にとって奨学金返済の負担は大きく、将来の生活設計の見通しが立ちにくくなっています。
  • 若い世代がもっと前向きに安心して人生設計出来る持続可能な社会へ向け、奨学金制度の改善・改革が求められています。
  • 人生の選択に対して二の足を踏む、躓きの大きな原因のひとつになっている

を読んで真剣に自分の人生について考えた方がよいでしょう。借りなければこのような負担はないということを考慮に入れ、借りるときは覚悟を持って借りましょう。


制度としての奨学金については大人が考えればよいのですが、社会のことを充分に理解していない学生に対して、経済状況を踏まえると返済できるかどうか分からない借金を背負わせるこのシステムには、問題があると言わざるを得ません。
高校生の方は『Fラン大学で奨学金を借りるということはリスクがある』ということは理解しておいた方がよいかと思います。


借金をさせてまで維持する価値が、今の大学組織にあるのか


この記事の発端ですが、ある大学関係者の方の書き込みですが、特定して批判するのはあまりよくないかと思いますので濁しますと、


批判者:Fラン大学に行くなら高卒でよい
大学関係者:『大学は学問をやる場所(だからFラン大学は不要)』という意見=大学に対する解像度が低い


というコメントで、率直な意見を言うと「そんな認識でFラン大学を擁護しているのなら、そういう大学は要らないだろう」ということです。
ざっくり今の状況をいうと、「学生の数が減って大学が過剰になっている」ということで、処方箋としては「大学の数を減らす」というのが、まず第一に考えるべき点でしょう。
つまり、大学もリストラを受ける時代になったということで、これについては受け入れるというのが一つの回答になります。


ここで、Fラン大学の社会的な存在意義を唱えるのなら、


『大学は学問をやる場所(だからFラン大学は不要)』という意見=大学に対する解像度が低い


こういう風に批判者を批判するのではなく、キチンと、そのFラン大学の存在価値を示せばよいのです。まさに説明能力こそが高等教育の証ではないのか?と思います。
それを高等教育を行うものがステレオタイプ的(反射的)に批判者を批判すれば「あーこういう説明能力のない人が大学やっているのなら無くてもいいかな」と思ってしまいます。


ITエンジニアでしたら、コミュニケーション能力が求められます。例えば客から問題点を指摘されたときに「お前の意見の解像度は低い」と言えばそういうエンジニアは退場させられるでしょう。
通訳案内士にしても同じです。


ある程度ランクの高い職業や専門職(ITエンジニアもそうですし通訳案内士もそういう面はありますが)の方は議論になると相手が無知ということで論争に勝とうとする面がありますが、ここで問われているのは説明責任でしょう。


日本経済の30年にわたる停滞を踏まえると、高等教育が十分に機能してきたのかという点について、考えさせられる書き込みとも言えます。


この方のSNSを見たのですが、既に学部単位ではリストラが始まっており「死活問題」と言っているのですが、これはあくまでも大学(教員・関係者)の立場からの意見であり、この方の大学もいわゆるFランで本人にとっても死活問題なのでしょう。もっともリストラというのは現代の日本のビジネスパーソンにとっては避けて通れないので頑張っていただくしかないでしょう。


私としては、不要な大学は淘汰されて、無理をして借金をしてまで大学にいくより、高卒でもキチンと仕事ができる環境の方がより社会にとっては良いかとは思います。今の私の年代(還暦近く)の人の半数以上は高卒です。
ちなみに、IT系の資格は高校生から取得しており通訳案内士の資格は社会人(40代)で取得しました。どちらも大学で勉強したものではありません。
資格もそうですし、私は放送大学を卒業しており、働き出してからでもやる気があれば大卒の資格は取れるのでそういう努力が報われる社会になれば良いかと思います。


改めて「あの時は、大学をやめて正解だった」と個人としては思う日だった。


Part1:大学だけが人生でない
Part2:大学のリストラがはじまるようだ
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2026-05-03 | コメント:0件

裁判を経験して分かった“裁判官の現実”と裁判官マップの必要性

弁護士の方が裁判官マップというサービスを作成・公開されました。


「裁判官は国民の人生を大きく左右する判断を行う立場にありながら、その評価がフィードバックされる仕組みがほとんどありません。」
ということで作成されています。


私も同様のサイトを作成しようかと思い仮で運用をしていますが、口コミを入れるところが出来ていませんでした。
そういった中でこういうサイトが出来るのは喜ばしいことです。(と同時にITのプロとしては、先を越されて恥ずかしい限りです。)


普通に生きていたら裁判を行うことはほぼないため、裁判や裁判官がどういうものか想像がつかないかと思います。私の場合、裁判官と言えばエリート中のエリートという印象を持っていたのですが、いざ裁判を経験すると愕然とします。
私自身の具体的な話は別途行いたいと思いますが、おかしな判決というのは、私が指摘するまでもなくニュースでやっており、お題目ばかりで役に立たない司法(注、あくまでも個人の感想です)が『失われた数十年』に貢献しているとも言えます。


公平さを保つ為に補足しますと、私の経験上良い裁判官もいらっしゃいますし、また判決を公開しており、これはこれで裁判官へのプレッシャーとなりえます。民事裁判は全ての判決を公開する制度が始まるとのことで、自浄作用も徐々にではあるが期待できるところではあるかと思います。裁判官マップが自浄作用のプラスになればと思います。


機会と需要があれば具体的な話をしたいと思いますが、下記、私が裁判を経験して思ったことを書きます。


・裁判に慣れる。費用は掛かるが人生において一回は裁判を経験したほうがよい。裁判に最もエネルギーを注げる人間は当事者ということになる。『どうしても許せない』というときに裁判の主人公が十分に実力を発揮できるようにしておく。


・三審制とは名ばかりで、ほとんどの裁判が一審で事実上終了となります。二審の裁判に行ったときにやる気のない裁判官をみて残念な気持ちになりました。実際1回で終わって「棄却」となりました。


・判例検索を行い自身でも勝ち負けの感触をつかむ。また判例に即した「勝てる」弁護士を探す。これは私が判例を検索していたにも関わらず、弁護士との打合が十分でなく、その判例を活用することができませんでした(これは残念であります)。


・今ならAIを使うのもあり。


・負けた時のことも考える。不当判決を食らうこともあるので、負けたときに『裁判の内容を自身でも公開』できるようにした方がよい。ニュースで取り上げられるとおり「不当判決」というのはよくあることで内容が間違いなければ公開したほうが社会正義となる。私の場合は裁判の中身そのものではないが、相手団体はいろいろ問題があり日本観光通訳協会(JGA)の法令違反についてということで公開しています。


・多くの人が記者会見をするのは裁判官や被告にプレッシャーを与える(いい加減な判決を出させない)為だと思われる。


・判決より相手の主張を引き出すのが重要なことがある。裁判では相手が嘘をつくことがある。こちらが証拠を握っているときには裁判で相手の嘘が暴かれることがある。嘘をついた時点でそれを公開すれば、裁判(試合)の勝ち負けではなく、勝負ありとなる(私の場合はまだ公開しいないのだが)。


・今なら裁判官マップを見て、裁判官の考え方を事前に調査できる。


・人が善悪を判断するという原理的な限界を理解しておいた方がよい。裁判官は人格者でもなんでもなく、悪い表現を使うと「隣の家のおやじが裁判官をやっている」という理解は必要かと思う。正しいことではなく「どうすればこの裁判官を味方にできるか?」というのは意識した方がよい。


・繰り返しになるが、上記のとおり2026年現在は、裁判に人生をかけるのはリスク高いことを理解しておいた方がよい。TVなどでたまに見る美談が自分も経験できるとは限らない。


とこんな感じになります。多くの人は「最後の頼み綱」ということで裁判を行うことになりますが、私の場合、合議制だったのですが、ここに書いてある以上のことが起こりました。最後になり裁判官が全て変わり、それまでの流れをぶった切られて判決となりました。左陪席の方は研修が終わったばかりの方でいきなり判決文を書いたという状況で、当然中身はきちんと検討されたと思えず、非常に残念な思いをしました。 変わる前の裁判長はこちらの問題意識をよく汲み取ってもらえたようで、真実を暴くという面では効果がありましたが、不当判決を受けたという思いは消えません。裁判官マップによりこういう不幸な人が減ることを祈ります。

2026-03-22 | コメント:0件
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